ダイヤモンドウェイの仏教指導者
チベット仏教カルマカギュ学派の最高指導者は、ギャルワ・カルマパです。法王はチベットの偉大なラマたちの間でもユニークで、何世紀も前に完全な悟りを開きました。前身は、歴史上実在したブッダの側にあった偉大なボーディサットヴァであるラヴィングアイズ(Ti.: Chenrezig)でした。1110年以降、法王は、チベット仏教において最初に認められた転生ラマとなり、意識的に転生を繰り返しています。現在では、カルマパ17世タイェ・ドーゼがカルマカギュ学派の最高指導者です。
ギャルワ・カルマパ16世、ランジュン・リクペ・ドーゼ法王
カルマパ16世、ランジュン・リクペ・ドーゼ(1924 -1981)は、東チベットのデージェ省で生を受けました。前身のカチャブ・ドーゼ(1871-1922)は、次回の転生を手紙に記述して残し、ツルプ僧院の権威者たちは、その手紙を元に転生した子供を見つけ出すことができました。
1931年に、この若い転生ラマは見習い僧となり、カルマパの式服および、黒帽を捧げられました。
カルマパは4年間ツルプ僧院にて学び、経典、タントラ、マハームドラーおよび、『ナローパによる六つの教え』の瞑想による成就を深めました。幼い頃から生来備る並外れた見識を見せ、自分の教師たちによく前生のことを話しました。カルマパは23歳の時、最後の戒を授けると同時に、カルマ・カギュ学派の最高峯の教えを伝授しました。
1959年、中国共産主義によるチベット侵略により、カルマパは国外への逃亡を決意しました。これは、中国共産主義の益々強くなる支配力から、仏教の教えを守る最良の方法でした。それに伴い、伝統的にカルマパの家とされてきたツルプ僧院を去り、ラマ、僧侶、平信徒を含む160人と共にブータンへと移りました。カルマパの指示の下、何世紀にも渡りツルプ僧院にて保管されていた最も貴重な儀式用の品々、遺物、タンカや本なども持ち出すことに成功しました。
北西インドのシッキム州知事は、カルマパ9世、ウォンチュック・ドーゼ(1556 -1603)の時代に建設されたギャルワ・カルマパ・ルムテク僧院を提供しました。カルマパはルムテクにて新僧院に着手し、インド政府およびシッキム州による惜しみない援助により、4年間で完成させました。この新僧院は、チベット外におけるカルマパ公式所在地となると同時に、仏教の学び、儀礼および修行の中心地となりました。
1974年に、カルマパ16世一行は欧米やカナダを訪れました。これは西欧人にとって、初めての「黒い冠の儀式」への参加機会となりました。以来このカルマパの儀式は何回も取り行われています。同年12月には、彼にとって最初の西欧人の生徒であるオーレ・ニーダルとハンナ・ニーダルに招待され、デンマークのコペンハーゲンへも訪れました。
1976年には、カルマパは米国ツアーのためニューヨークを訪れ、翌年には、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、オランダ、フランスおよび、イギリスを訪問する6ヶ月間におよぶツアーを行いました。
1980年の5月に、カルマパは再び西欧を訪れ、ロンドン、ニューヨーク、サンフランシスコおよび、コロラドのボルダー郡に、公演のため滞在しました。
ギャルワ・カルマパ16世ランジュン・リクペ・ドーゼは、1981年11月5日にシカゴ近くの病院でこの世を去りました。
ウェブサイト: www.karmapa.org
ギャルワ・カルマパ17世トリンレー・タイェ・ドーゼ法王
ギャルワ・カルマパ17世トリンレー・タイェ・ドーゼ法王は1983年5月6日にチベットで生を受けました。偉大なニンマ派のラマであるミパン・リンポチェ3世と、ゲサル王の子孫との間に長男として生まれました。彼は1歳半にして、転生したカルマパであることを人々に伝え始めました。1994年に、彼は家族と共にチベットからネパール、そしてインドへと逃れました。同年3月には、ニューデリーへ到着し、シャルマ・リンポチェの歓迎式典で、ギャルワ・カルマパ17世と正式に認められました。カルマパ17世へは、トリンレー(仏陀の働き)・タイェ(無限)・ドーゼ(不変)の名が与えられました。
1997年、カルマパ17世法王は、ブータンで開催されたトプガ・リンポチェの式典に招待され、正式に即位しました。何千におよぶ人々に出迎えられたため、ブータン国境から首都ティンプーへの移動は、通常所要時間3時間のところ、7時間もかかるほどでした。同年10月17日、カルマパ17世による祝福を受けるため、3千人の人々が集まり、王や4人の女王を含む王家に迎えられました。
1999年10月、ギャルワ・カルマパ17世法王は最初の国際的伝授に着手し、シンガポールおよび、台湾で数千の人々にイニシエーションを行いました。ミレニウムは、歴史的な西欧への訪問で始まりました。ドイツのデュッセルドルフでは、世界30カ国以上に所在する数百のダイヤモンドウェイ仏教センターから6千人もの生徒達が集まり、カルマパは熱烈な歓迎を受けました。
2003年の夏、カルマパ17世法王は、米国では初めて伝授とエンパワーメントを含む正式プログラムを実施しました。同年7月19日・20日に、サンフランシスコのカルフォオルニアで、カルマ・パクシおよびメディシンブッダのエンパワーメントを行いました。当イベントは、米国のダイヤモンドウェイ仏教センターによって開催されました。
2003年12月、正規の教育を終了した後、カルマパ17世法王は『偉大なタントラ指導者』(skt. Vajracharya) として認められました。現在、カルマパ17世はインドのカリンポンに住み、精神修行および、次世代への教育を継続して行っています。
ウェブサイト: www.karmapa.org
シャマルパ14世、ミパム・チョクィ・ロドロ法王
チベット仏教カルマカギュ学派において、阿弥陀仏の現れであるクンジー・シャマルパ・リンポチェの位置は、ギャルワ・カルマパに次ぎます。初代シャマルパ・リンポチェ、ケドゥルプ・トラクペ・センゲ(1283-1349)は、カルマパ3世ランジュン・ドーゼの主要な生徒でした。最初の生まれ変わりであるカチョ・ウォンポは、カルマパ4世ロルペ・ドーゼより、カルマパの黒帽と寸分の違いもない複製物である赤帽を授けられました。カルマパは赤帽と共に、『シャマルパ-赤帽を被る者』という名を授けました。それ以来、カルマカギュの教えは、何世紀にもわたって教師と生徒を交替する黒帽と赤帽の二人のカルマパによって伝えられ、彼らの精神を切り離すことはできません。
クンジー・シャマルパ・リンポチェ14世、ミパム・チョクィ・ロドロ法王は、カルマパ16世の甥として、1952年にチベットのデージェ省で生まれました。彼は6歳の時、シャマルパの生まれ変わりとして認められ、チベットのシャマルパの所在地であるヤン・チェン僧院に行きました。彼は9歳の時、カルマパ16世と共にチベットを後にして、インドのシッキム州へと逃れました。以来カルマパ16世の指導の下その地で生活し、仏教の教えを学びました。
シャマルパ・リンポチェは、シッキム地方のルムテク僧院にて、カルマパ16世より全てのカルマカギュの教えと伝授を授けられました。カルマパ亡き後、インドのニューデリーにてカルマパ国際仏教大学院(KIBI) の完成に着手しました。1994年3月に、彼はトリンレー・タイェ・ドーゼをギャルワ・カルマパ17世とし正式に認めました。
2014年6月11日に、シャルマパ・リンポチェは享年62歳でこの世を去りました。彼のヨーロッパにおける公式所在地であるドイツのウルム地方レンチェンにて、数日間に渡る最後の指導を終えたばかりでした。亡くなる数日前の最後の教えで「没後の修行の仕方を知っていれば死を恐れる必要はない。」と言い残しました。
ウェブサイト: www.shamarpa.org
ロポン・ツェチュ・リンポチェ
ロポン・ツェチュ・リンポチェは1918年にブータンで生を受けました。13歳になるとブータンを去り、ネパールで叔父のラマ・シェラブ・ドーゼの精神的指導の下で学び、修行しました。そこで完全なダルマの訓練を受け、ミラレパの洞窟やグル・リンポチェの聖地などの過酷な条件の下で瞑想を行いました。
1944年、リンポチェにとって最も重要な教師となるギャルワ・カルマパ16世法王に出会いました。後に、ロポン・ツェチュ・リンポチェは、ネパールのダルマ実践者にとって非常に重要な人物となりました。1987年には、彼の最初の西洋人の生徒であるラマ・オーレ・ニーダルとその妻ハンナの招待によりヨーロッパを訪れました。それ以降、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアを広く旅して教えを説き、数えきれないイニシエーションを行いました。スペインにて「カラチャクラ・ストゥーパ」を完成し、ヨーロッパおよびアジアに16塔のストゥーパを建設しました。
ロポン・ツェチュ・リンポチェの最後のプロジェクトとなったスペイン、べナルマデナの「悟りのストゥーパ」は彼の残した偉業の内の最高傑作です。リンポチェは、この偉大なプロジェクト落成の4ヶ月前の2003年6月10日に、85歳でこの世を去りました。その計り知れない思いやりの力は、あらゆる背景の人々に感じられ、全てのものたちに恩恵をもたらしています。
シェラブ・ギャルツェン・リンポチェ
シェラブ・ギャルツェン・リンポチェは、マントラ『Om Mani Peme Hung(オム・マニ・ペメ・フン』を少なくとも10億回以上を成し遂げたチェンレジ修行の達人『Maniwa(マニワ)』として名高く、カギュ派で尊敬されるラマです。カルマパ16世によりリンポチェとして認められました。並外れた才能の持ち主であり、経典やタントラから儀式や音楽、科学、芸術、作曲まで、伝統的な仏教のあらゆる側面を習得しました。
リンポチェはその多くの活動の中でも、ファルピンにある3年間のリトリートセンターのリトリートマスターです。彼はカトマンズの西部に100名の尼を収容できる修道院の建設を監督し、東部には、僧侶のための修道院を建設する計画も進行中です。リンポチェは年に数回、スワヤンブナートのニシャン僧院で、数千人にのぼる修行者のために『ニュンネおよびチェンレジ』の修行を指導しています。数年に渡り150億回を超えるチェンレジのマントラが唱えられてきました。
リンポチェの教え方は深く、単刀直入でわかりやすいです。彼の教えは、実用的なアドバイス、物語や温かいユーモアに富んでおり、運よくその教えを聞くことができた全ての人々の心に強い印象を残します。
ラマ・オーレ・ニーダル
ラマ・オーレ・ニーダルは、カルマカギュ学派の伝統において、ラマおよび瞑想の教師として完全な資格を有する数少ない西欧人のうちの一人です。彼は世界中を旅して、毎日のように異なる都市を訪れてブッダの教えを伝えています。
1969年オーレ・ニーダルと彼の妻ハンナは西欧人としては最初に、ギャルワ・カルマパ16世の生徒となりました。3年間におよぶ仏教哲学の習得および、「意識的な死(tib. Phowa)」と呼ばれるダイヤモンドウェイ仏教独特の修行を含む、集中的な瞑想修行を終えた後、カルマパ16世の要請により、オーレ・ニーダルはヨーロッパで仏教を教え始めました。それ以来ラマ・オーレは、世界中を訪れ、ほぼ毎日異なる都市でカギュ派の祝福を伝授しています。講義や瞑想リトリートを通して、彼の深い知識とダイナミックな教えは、何千もの人々に影響を与えています。
ラマ・オーレは、人々の持つ人生観や仏教観に型破りな方法で挑戦し、仏教を西欧にもたらす大きな原動力となってきました。今日まで、彼のユニークなインスピレーションにより、世界44ヶ国に渡り600以上のダイヤモンドウェイ仏教センターが設立されました。現代的なスタイルと古代の知恵を独自に融合させた方法により、西欧においてダイヤモンドウェイ仏教の手法を実践する最大の生徒のグループが誕生しました。
ラマ・オーレは多数の本を執筆しています。:The Way Things Are; Entering the Diamond Way; Mahamudra; Riding the Tiger(全てドBlue Dolphin出版、 米国); and The Great Seal (Fire Wheel出版、 米国)他。
ウェブサイト: www.lama-ole-nydahl.org
ラマ・ジグメ・リンポチェ
ラマ・ジグメ・リンポチェは、クンジー・シャマルパ・リンポチェの兄弟として、カルマパ16世法王の親族として生を受けました。カルマパ16世は、彼に広範な教えを伝え、最初のヨーロッパ訪問の後、自分の代理として彼をヨーロッパに残しました。それ以来、ジグメ・リンポチェはヨーロッパにおけるカルマパの所在地であるフランスのダクポ・カギュ・リンを指導しています。
彼はその組織力に加えて、ラマとして非常に尊敬されています。多くの人々が彼の深い知識、西洋のライフスタイルに対する理解、実践的な知恵、思いやりやユーモアによって恩恵を受けてきました。